神無月の巫女/★★★
最初に。俺は「介錯という作家」についてこの批評を書くが、あくまでも俺はアニメ版「神無月の巫女」しか観ておらず、言ってしまえば少年エース連載の方が完結したのかしないのかさえ知らない。そのことを明記することが免罪符になるとも思えないが、自分自身の言い訳というよりこれを読む人に公正な審判を望むという意味に於いて書く。そんな断りが必要だとしても、この文章を書かずにいられなかったので。
なお蛇足かもしれないが、介錯は「ハラキリマンセブン」と「ハラキリマンレオ」という二人組のユニット(のはず)。恥ずかしながら、両人主催の同人誌は何冊か持っている。その頃から、安定した美少女の絵柄とギャグのセンス、そして元ネタの設定を十二分に読み込んだ、決してファンを裏切らないパロディの作り方、キャラの動かし方に、俺は同人作家としての介錯の、端的に言ってファンだった。
最終回までを見終えての感想。良くも悪くも、介錯という作家の資質は同人作家であるということの外には出られないのだろうなぁ、ということだった。そしてある意味、彼らはそれさえも良しとしているフシがあることが、ある程度彼らの実力を認めている俺としては、若干悲しくもある。
最終回は、良かった面と悪かった面とが混在していた。まず正直に言えば、千歌音が過去の日の巫女と月の巫女の因縁を明かすくだり、そして姫子が「千歌音ちゃん我慢してたんだね」と言うことで、強かった千歌音が泣き崩れる辺りでは不覚にも泣いてしまった。
だけど。前回の最後で腹を刺し貫かれて、口から血を吐いてる人間が、それから20分間生きているというのはいかがなものか。しかも一旦「姫子、幸せにね」と微笑んでそっと目を閉じた瞬間、姫子の「待って千歌音ちゃん!」という叫びにすぐぱっちり目を開けて、「私を好きだと言ったのも嘘なの?」という問いに、逆にさっきよりも瀕死感のない演技でとうとうと語り始めるのには苦笑というより驚愕してしまった。
そりゃ、最終回で驚愕の事実が次々に明かされることで怒濤のカタルシス、という展開は特に最近のヒットしたエロゲーなどには多い(つっても俺は奈須きのこものくらいしかやってないが)。でも、それを全部語らせるために瀕死の、しかしそれゆえにその瞬間もっとも美しく輝いているヒロインを、やっぱり大丈夫でした、と自力歩行までさせるのはルール違反。「さっきの俺の涙を返せ」と言いたくなった。
そのあと。「生まれ変わるから!」「絶対千歌音ちゃんのこと見付けるから!」というやりとりはまぁどこにでもあるありふれたシーンなので、パクりとして云々することもないだろうが、さらにその後エンディングで、大人になった(少なくとも高校は卒業後のようだ)姫子が街を歩いていて、今までと全く変わらない姿の千歌音を見付けて抱き締めるところ。
「生まれ変わる」のなら、子どもになって生まれてきてくれ。どうなってるのかさっぱり分からない。やっつけ仕事でもいいから理由付けは欲しい。「奇跡だ」というのなら、その奇跡がせめて起きる瞬間を見せておいて欲しい。きれいに終わってはいるけれど、介錯の頭の中にある、それまでに吸収してきた膨大なオタクメディアの知識の蓄積の中から「こう終わったらきれい」という「シチュエーションだけ」を取り出してつぎはぎしただけにしか見えない。
もう一つ、これは「アニメの最終回」という制約から尺が足りなかっただけかもしれないが、これまでのオタクメディアでは「こうなったら次はこうなるのが当たり前」というようなシチュエーションでも、それ相応の盛り上げなり逡巡なり、要するに「溜め」があったはずだ。その溜めの時間によって、オタクたちはその与えられるべき気分、例えば悲しみなり燃えなりを高められる。
でも介錯の場合、「この展開でこうなったら、オタクたちは泣くはずだ」という前例だけが頭にあって、必要十分な演出を配するよりも、先を急ぎすぎている感がある。介錯からすれば「結論の分かっているシーンなど描いていてもつまらない、これを描いたら読者は泣くから、必要な物語上の装置だけ描いたら先に行こう」という気分で描いているのだろうが、それではオタクたちは置いて行かれてしまうのだ。
それでも俺がこの物語で泣いてしまうのは、俺が彼らと同じだけの「蓄積」を抱えているからに他ならない。だけど、じゃあ「蓄積」のある人間にだけ向けて創作が出来ればいいのか、といえば、それは究極的にノーでなければならない、はずだ。少なくとも俺はその立場に立ちたい。ハリーポッターだって、例えばあかほりさとるにもあれと同じ設定で同じ分量の物語を書く技術はきっとある。だけどローリングのそれがオタクを超えて(という言い方はちょっと恣意的すぎるが)全世界中に届いた理由は、「蓄積」の外にある人にも分かる書き方、を回転女史が選んでいるからに他ならない。
ぽりりんには「それをしなくてもついてきてくれる人間は少なからずいるし俺はそれでおまんま食えるからいいんだもんねー」という、ある意味政治的な「計算」があるが、介錯にある計算が果たして「政治的」か、といえば、そうは決して思えないところに、つまり自発的な「俺オタクだからオタク的なもの描いていられれば満足」といった打算しか感じられないところに、俺は「あんたらはもっと出来るよ!」という嘆きを禁じ得ない。
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